2017年11月19日日曜日

移民の歌


レッドツェッペリンの曲に移民の歌と言うのがある。

何やら強そうなやつが登場する時にかけたり、ドラマーがスタジオ練の曲と曲の合間の暇そうな時にダンダダダドンとひとしきりやり「あっれ、おっかしいなあ」とか言いながらダンダダダドンと己の足さばきの熟練度を測っていたりするアレだ。アアアーアーー。
で、ものすごく乱暴に言えば、スゲー寒くて過酷な地から緑あふれる西を目指して侵攻するって内容の曲ですが、今日でも移民が移民を決意する時は生活環境をより良くしようと言うことは変わらないと思います。
今まで住んでいた土地を離れるわけですから斧を持って雄叫びをあげるくらいの勢いが必要なのは想像に難くないですよね。

さて、情報の波に乗るか飲まれるかの選択を迫られる2017年の現在、英国のEU離脱やトランプ政権の誕生など、その土地で代々生まれ育った人々と後から来た移民の間に軋轢があることが浮き彫りになってきている今日この頃だと思います。

やー、外人さんは多民族国家で大変だなぁとか、自分も移民の子であることを忘れてホゲーっとした頭で呑気にニュースを見ていましたが、自分の住む新宿区の居住者は10人に1人が外国人ってな訳で、コンビニやファストフード店では海外から来た店員さんを見ない日は無いです。
演奏の為に地方に行ったり、たまに帰省して帰ると「おお、日本人の店員がコンビニにいる!名札の名字が学校の同級生に一人くらいは居そうな奴だ」と逆に驚くくらいになりました。
子供の時にはとても珍しかったインドカレーの店も今や珍しい物でなくなったり、工場でアルバイトをすれば同僚はフィリピン人なんて事も珍しくなくなり、年々外国から日本に住むために来る人も増えていることかと思います。

中国人と日本人のルーツを持つ父と台湾&オランダ系のルーツを持つ母は戦後まもなく日本で生まれて、中国が建国されてすぐ中国に渡り、現在の北朝鮮ばりにハードコアな文化大革命時代に育ち、鄧小平が出てきて開国&経済発展路線にシフトしてから外国にも行きやすくなったって事で大人になってから日本に来てから、自分と弟が生まれたといういきさつもあり自分も幼稚園までは自分も中国人の名前でしたが、バブル真っただ中の日本で仕事を得て共産圏からうってかわって、働けば働くほど儲かって出世できる資本主義サイコー!ジャパンアズナンバーワン!これからもこの地に住み続けるアルよ、となったかどうかは定かではありませんが、そんなわけで小学校に上がるころには日本に帰化してこれからは日本人ってことでひとつヨロシクって事になりました。

とはいえ、自分は家庭内では中国語が飛び交っていた為、幼稚園児の頃の最初の1年くらいは日本語がまったくわからず「あぁ、みんな何言ってるか全然わからん…」と途方に暮れたのをいまでも良く覚えています。

さて、それから小学校に上がり日本語もだいぶわかるようになり、中国語も大分忘れてしまって、国籍も名前も日本人のものになったのですが、どうにも仲間外れにしてくる人ってのはどこにでもいるもので「お前は中国人だから来るな」とか「このキムチ野郎」みたいに言われる事も増えてきて色々物事もわかってきた今ならば「こら、だいいちキムチは韓国だ、中華鍋でぶん殴って一生チャーハン食えない体にすっぞこの野郎、5千年の歴史ナメんな」くらいの事は言えると思うがスクールカーストも低く、ガリガリのもやし野郎だった当時の自分は「俺の親が中国人なのは悪い事なのか…親はもうお前は日本人だと言うが学校の奴らはそうは言わない…パスポートも日本の持ってんのになんでだ?おかしいなぁ…」と首をひねり悩める日々を送っていました。

とりあえず、この国では周りに合わせないとどうも爪はじきになるようだと言うことはわかり、自分の中の中国要素を排除しないとやってけなさそうだなぁと思い、親に中国語で話しかけられても徹底的に日本語で話しかえし、親の中国人訛りの日本語を聞かれてネタにされてはかなわんなぁ、と言うことで家に人が来るのも凄い嫌な時期がありました。

まあでもね、どれだけ同化しようと努めても代々その土地にいる人たちの子孫と移民の子供の自分では残念ながら対等な立場を築くのは難しいと思います。
先に居る人達ってのはそれだけでその地の暗黙の了解やルールが染みついてますから、取説無しで放り込まれるのに比べたらそれだけでも有利かと。情報の格差があるんすよね。

よく移民の問題で後から来た人が現地のコミュニティや習慣に馴染まなくて困るんすわ、みたいなもっともらしい街の声が出てきますが、そう言う人達が逆にどれだけ相手の文化や習慣を理解しているかというのは中々疑問が残ります。
自分達だって誰かの土地や文化を奪った歴史の上に立ってるのによく言うよなぁ、と。
お化けの正体みたいに、わからないって事が結局人間は一番怖いのかもね。
つまり人間はお互いをお化けや妖怪のように見ているって事か。。。

2017年11月1日水曜日

睡眠薬の過量服薬で精神科の独房みたいな部屋に入院して出てきたって話 Part3 ~そして退院へ~

今日は眠くなってからこの辺で…と書き残し実に半年以上更新をおさぼりしていたのですが皆さまお元気でしょうか?
さすがに半年以上寝てたわけでは無く、何となくバタバタと日々過ぎてる内にってな具合で筆を取るのが遅くなりました、おっさんになってきてしまったので時間が過ぎるのは早いものです。続き気になってた人はスマンです。

そんなわけで精神科の閉鎖病棟に入院して、明かりが消せなくて寝れない。。。という感じの話までは書いたと思うんですが、これ入って2日目くらいの夜の話だったかなと記憶しております。

さて、それで起きて外の世界はどうなってるんじゃろうと確か待合のロビーにある新聞を要求したのですがそれも許可がないと読めないと。

兎にも角にも何をするにもここではお医者さんの言うことが絶対で、許可がないことはできませんの一点張りなので現場の人の匙加減で対応するって事は難しいようだ、とホゲホゲした頭でも何となく理解してきました。

かくなる上は脱獄か、との考えも頭をよぎりましたが、不審な動きを見せて刑期...じゃなかった、入院期間が延びてしまってはマズいと思い、おとなしく模範囚ならぬ模範的な患者になるよう心を砕きました。

しかし、心を砕こうにもやることがないので、布団の上で胡坐をかくか、寝っ転がってボケーっとしているくらいしかやることがありません。

いざ本当に何もやることが無いとなると、これはもう考え事をするしかないわけで、なぜ自分はこんなところに来てしまったのかと考え始めます。

ほんで色々と忙しくやってる内にオフを取る事を怠ったのがデカいかなぁと思うようになりました。
本当に何もしない時間ってのは病院に入るまで果たしてあったのだろうかと。
思うに前年の秋から年末にかけてちょっと忙しい時期があって、その時期がいったん落ち着いた時期に1人でどっか2~3日くらいどっか日常から離れたいなーと思ってたのですが、その時はまあでも家からいなくなると妻子もブーブー言うだろうとか考えちゃってそれを実行し損ねちゃったんすよね。ほんで、色々溜まってきて最後にやってた案件がひと段落した時にはもう限界超えててプツッと糸が切れた感じでした。

そんなことを考えられるくらい何もしない時間ってのは日常の中には意外と無いものなんですよね。
例えばゴロゴロしながらインターネットをしていて、今自分は最高にリラックスタイムを満喫してると思っていてもそれは結局何かしてるって事には変わりなくてたぶん脳はオンのままなんですよ。
なんで起きてから寝るまでの間、オンになりっぱなしになってるのはこのご時世案外色んな人もそうなのだろうなと思います。そりゃメンタルやられるわ。精神の不調は脳のエラーですからね。

本当に何もしないと退屈だし、時間を無駄にしているのではないかと焦燥感に駆られるようになりますが、思い切ってまったく何もない場所で何にもせず自分の内側と対話することはとても重要なのだなってのが今回の入院で得られた事の中ではもっとも大きい事だったのではないかと感じました。

それからすったもんだあって、病室の中でも読書を許されるようになり、懸命に努めておとなしくした結果10日ほどで無事退院と相成りました。やーあせった、出来る事なら二度と入りたくないです。釈放となった日の少し寒いシャバの空気は最高に美味しかったと今でも記憶しております。

2017年2月25日土曜日

睡眠薬の過量服薬で精神科の独房みたいな部屋に入院して出てきたって話 Part2

どうも皆様こんばんわorこんにちは。
さて、前回の投稿からしばらく間が空きましたが忘れてしまわないうちに続きを書きたいと思います。
今回自分が入った刑務所の独房のような部屋こと保護室って所について実際どんな所でどんな感じか気になる人も多いのではないかと。隠さなくても良いんですよ?人間未知の事については惹かれるものですからね、もっとも今回の件は人によっては引かれる話でもありますが。
はい、ではこちらが図解になります。

これをtwitterに投稿した所バズるんじゃね?と思ったのですが話題が話題だけにアクセスは伸びましたがRTやいいねはあまり伸びなかったです。
世界衝撃ニュースとかでもわかるように人が死にかけたりあり得ない不幸にあったりするシーンなんか本人にとっては生きるか死ぬかの一大事ですが、他者にとっては喜劇になりえますからね、全然キャッチーに扱ってもらって構わないと思うし、起きた事は事実でそれが自分にとっては避けがたかった事も仕方ないと納得してますんでそのくらいカジュアルに受け止めて欲しいと個人的には思っているのですが。
基本的には刑務所の独房と似たり寄ったりですが内装はログハウスやサウナのようなウッディな感じでこの手の部屋は真っ白だったりするのかな?と思っていたのでそこはやや意外に感じたとです。

さて、この中でどんな風に暮らすかと言いますと

・7半 朝食 パンなどの軽食と牛乳が部屋に運ばれてくる 朝の投薬を受ける

・9時 洗顔と歯磨きを許される なお週に3度の入浴もこの時間に行なえる

・11時半 昼食

・15時 おやつの時間

・17時半 夕食

・20時 夜の投薬を受ける

基本的には以上の流れになっていて、部屋の外に出られるのは9時の洗顔タイムor1回30分ほどの家族の面会のみです。

意識が戻った初日はまだ体に薬がたっぷり残っていて頭もやもや、体ぐらぐらで食欲も湧かずに2食抜かして夕食をすこしだけ手をつけました。
病院のメシと言うのは大抵薄味でヘルシーなもので今回も例に漏れずそうだったのですがそれでも味が濃く、油っこいものは余計こってりに感じ、胃腸が荒れているのか食べ物が体に入った際には異物感がすごくてああ自分はここに食道があり胃があるのだなと自覚せずにはいられなかったです。
水を飲むことへの欲求は凄まじく、渇きを感じ、喉と唇を潤したいと思う気持ちをこんなにも人は感じるものなのかと。
このような出来事から自分には体があり、そしてその体は生きる為に動いているのだなと強く実感しました。

さて、少し落ち着きますと人間自由を奪われ閉じ込められた状態と言うのは中々辛いものがあり大変退屈なものです。
そんなわけかどうかはわかりませんが部屋の中には気がどうにかなってしまった患者(今回は自分)がテンパって壊さないように鉄で出来た囲いでガードされたインターホンがあり、それを押すと看護婦/看護師さんが様子を見に来る仕組みになっています。
例えば飲み水が無くなったときに呼んでそれを伝えると新しい水のピッチャーをくれたりするわけですが、自分が最初に呼び出してした質問は「あのー、ここから出たいんですけど」といった間抜けなものでニッコリ『先生の許可が無いと出られませんのでいまはゆっくり休んでください』と一蹴されました。

さてこれはまいったな、暇過ぎてやることがないぞと部屋を見渡してみると先にこの部屋の中に居た人のメッセージらしきものがあるんですよね。
”がんばって生き抜こう”みたいななんてことないけど前向きな染みる言葉から”医者の〇〇は絶対○す”のようなアグレッシブなメッセージまで凄い振れ幅がありましたが、中でも参ったのが壁にでっかく引っかき傷で"バカ"って書いてあるように見えることです。
言葉の力というのはなかなか侮れない物でこれがずっと目に入るので俺がバカだからこんなところにいるのか?など身につまされるような気持ちになり無性に腹が立って来たので自分もガリガリ壁を引っかいて”パカ”にしておきました。アルパカのパカ。こっちのが可愛いし落ち着きます。

さて、不安材料を一つ潰した所で夜の薬(睡眠薬と安定剤)を飲んでさあ寝るぞとなりましたが部屋にはこうこうと電球色の灯りが灯っているんですね。
自分で消せるようなスイッチも見当たらないのでインターホンを押して電気消して欲しいと告げるも『防犯上の都合で消せない決まりなんですよ、ごめんなさいね』との事。
なんてこった、自分は電気決して寝る派なのだがここでは安眠よりも防犯上の理由が優先されるのか…と自分の人権が防犯上の理由以下に落ちてしまった事にショックを受けるのでありました。
しかし明るいままではどうにも落ち着かないので、ちり紙をランプの傘のように工夫して貼って暗くする事に成功したのですが、見回りに来た看守...じゃなかった、看護婦さんに『それやって前に煙出た人いますんで外してもらって良いですか』とやはり人は追いつめられると同じ事を考えるのだなと思うとともにここでは暗やみが欲しいといった本当にささやかな願いも届かないのだな…と肩を落とし、1.5~3時間ほど浅い眠りについては起きる感じで夜は過ぎて行きました。

いまでは無事に自宅でキーボードをカタカタやってるわけですが、今日はもう眠くなって来たのでひとまずここまでで...

2017年2月17日金曜日

睡眠薬の過量服薬で精神科の独房みたいな部屋に入院して出てきたって話

おっす、皆様心身共にお元気でしたでしょうか?
私は残念ながら元気ではありませんでした、どうも、大林です。どよーん。
タイトルの通りの騒動がつい10日ほど前にありましてつい先日シャバの空気をようやく吸えたのでこうしてブログなぞ書ける状態になっております。

さて、痛風腰痛公汎性発達障害など持病のデパートと化している不肖わたくし、他にも何を隠そう"うつ"も若い時分より嗜んでましてですね、詳細は各自リンクよりウィキってもらうとしてまあようは色々あって人より気分の浮き沈みの差が大きいと。

で、私事ではありますが色々とありまして年明けの頃から段々と気持ちが塞ぎ込んでですね、毎日少しづつ心が見えない手で押されていたような感覚になり遂には気付いたらあと一歩の所まで来てしまいドンっと押されてそのまま落ちてしまって目が覚めたら病室に(13年5ヶ月ぶり)って感じでした。

正直記憶が飛んでしまって事の始まりのあたりは自分も実感が無いのですが睡眠薬を10シート(1シートで10~12錠、確か)くらい飲んだようなとこまでなんとなーく覚えてて妻の話によるとまっすぐ歩けない程のヨレヨレの状態で外でぐにゃーっとなっていたのを親切な人が家まで連れて来てくれてきた模様で、その後都内のかかりつけの医者に連れて行かれ、コバトン県の病院に入院って流れに。

道中では「俺を狂人に仕立て上げてぶち込むつもりなんだろう」「とにかく病院には行きたくない 嫌だ 行きたくない」とか言いながらおいおいえんえん泣いていたと伺っており、かなり異様な光景だった事は想像に難しくなく、妻と母にはもう10回程スライディング土下座しましたしこれからも足を向けずに眠りたいと思います。

で、目が覚めて気付くと刑務所モノのドキュメンタリーなどで見たような光景の部屋に居ましてですね『とうとう自分は永年確執のあった弟を無意識のうちにカインとアベルよろしく殺害してしまってムショにぶち込まれてしまったのではないか』とビビりましたが、看守ではなく看護婦さんが来たので、『ああなんかやらかして病院入っちゃったのか...』と ぼやーっと頭と体がもやになってしまっているような状態の中ほっとするような生存してる事にがっかりするような気持ちが半々になりました。

その後部屋にきた主治医(宮崎駿に超似てるので心の中では"駿"と呼んでいる)や母と妻よりどうやら事後2日経過しているらしい事を知る。なるほど。

今回入ってしまった部屋は精神病院の閉鎖病棟の奥の院とも言える隔離室と言う所でですね、10年以上くらい前も閉鎖病棟にはお世話になったのですが時々叫び声などが聴こえてくるその場所を初めて知った時は『やー、俺もこんなとこ入っちゃったけどさすがにあそこだけはやだなぁ』とガクブルしていたその場所に気付いたらいたと。
まだまだ死ぬ気が失せきってない身でしたから『あーやっぱ我が人生最悪の時だ やっぱ死ぬしか無いわこりゃ』とネガ方面にまっしぐら。
よく拘置所で首を吊って自殺とかきくじゃないですか?そうゆうノリでうまーく縄状にした洋服とかを引っ掛ける手頃な物は無いかと辺りを見回してみるとですね、やっぱりあるんですよねこれが。『女房子供とバンドメンバーには迷惑かけるが俺なんか生きてる方がたぶん迷惑かけるし自分も辛くて辛くてたまらないからこうするのが一番良いんだ これで今度こそ終わりだ』と思いながら昔魚釣りで覚えた結び方でしっかり結わえて首入れてよいしょっとやったんですわ。

したらばね、これがやっぱ苦しいんですよね。首吊りは自殺の中では苦しみが少ないとか言うけどあんなん大嘘ですわ、痛いし、頭 かぁーってなるし、死ぬ程苦しい。死のうとしてるのだから至極当然なのだがとにかくヤバい。
で、こりゃもう向こう岸までタッチしたなってくらいのとこで生存本能がぶわーっと蘇って来て、あかんあかん!!ほんま死ぬ!!アカンて自分!!子供とか音楽とかどないすんねん!!これホンマにアカンやつやって!!となりまして自分のデカいガタイでじたばたしてたら洋服結わえてる側が物理的に壊れましてな、どうにかこうにか私を土俵にした生の本能と死の本能の独り相撲は生の本能が勝利を収めた形となったのであります。

さて、久々に文章書くとちょい疲れますね、後日談もあるんですがちょっと分けさせてもらいますー。